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彦谷へ至る道(その4) [彦谷へ至る道]

清見村との関係は多様にふくらんでいった。いよいよ清見が好きになった。

パスカル清見がキャンプ場をつくることになり、意見聴取のワークショップとかが開催され、私も参加していた。当時私は、米国の新しい流れ「ミニマム・インパクトキャンピング」に興味を持ち、ガイド本などを取り寄せて調べていた。自然への負荷を極力小さくしつつ、かつ自然の中に入っていく方法である。路面や植生に影響を与えないため、靴も登山靴ではなく、あまり靴底がデコボコしていない靴を履こう、みたいなところまで行っているので、面白いのだが孤独な世界でもある。そこまでは無理にしても、世に散らかるオートキャンプ場のようにはしたくなかった。が、まあ結果は普通のオートキャンプ場だった。この時の副産物としては、官運営のワークショップの限界も、しっかり見せてもらったこと。パスカルのキャンプ場はロケーションは良いし、オートキャンプ場としての機能も良かったが、昨2008年で閉鎖してしまったようだ。東海北陸道が開通して、せせらぎ街道そのものが静かになってしまったことが影響しているのかな。でもキャンプ場だから関係ないとも思うけど。

北アルプス方面や高山、せせらぎ、奥美濃、色々なところへ遊びに行っては、彦谷に寄る数年が続いた。デリカを手に入れたのはいつだったろう。冬にもキャンプしていた。

またもう一つ、別の繋がりがある。ある木工集団が好きだった。永六輔も好きで、その木工集団と一緒に源流の森にどんぐりを植える活動をしていることに興味を持ち、植えた現地を見に行った。彦谷にある。しっとりとした谷間の小さな扇状地は、薄羽の虫たちがやさしく宙を舞う幻想的な空間だった。また彦谷の奥にある巨木の「彦左衛門」をシンボルともしていた。ある時、一緒に山荘オーナーになろう、という情報を得た。90年代半ばくらいだろうか、その木工集団を通じて情報を得た。木工集団に関係している人が工事をして山荘を作る。その山荘は、オーナーが使わない日は向こうで借上げてくれて使用料をくれるという仕組みだ。早速コンタクトを取り、極小なプランを考え始めたのだが、現地で打ち合わせを繰り返しても、何回でも先送り、順延が続いた。数年が経過してしまい、このままではらちがあかないと思って焦りはじめた。

さすがにこれではいけないと思い、清見村へ行った折り、以前より親しくさせてもらっていた助役のM氏に相談した。M氏は、すぐに氏の同僚で友人のS氏を紹介してくださった。S氏は彦谷の所有地を貸してくれるとおっしゃる。現地は他にも立派なログハウスが2つ建っているところで、しかも永六輔氏たちがどんぐりを植えた、あの源流の森のすぐ直下だった。
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彦谷へ至る道(その3) [彦谷へ至る道]

ヤマハAG200に乗っての「棲家探し」は、郡上八幡近辺から始まった。

亀尾島川上流の廃村。後に白装束で有名になった大和と明方の間。越美南線(現長良川鉄道)終点、北濃駅から平家平スキー場の近辺。何度か、せせらぎ街道沿い、とりわけ西ウレ峠近辺にも浮気しつつ、東海北陸道の建設予定地を北上していった。高鷲、ひるがの、荘川エリアは、バブリーな臭いがして、しかも一宮実業団が多いのでジャンプ。尾上郷や御母衣ダムの方もチラチラ経巡りつつ、当時分かっていた高速道の予定地では最北の清見東(現在の飛騨清見IC)へ着いてしまった。

ここが不思議なところだが、職場で清見あたりへ延びる東海北陸道の話をしていると、仕事先のお嬢さんの夫が、この清見のインターチェンジ予定地のすぐ横、二本木という集落の出身で、その父上が近くでキャンプ場を作っているという話が出た。先輩と一緒にバイクで出かけた。夏厩から高山へ抜ける158号線から分かれ、川沿いに上る簡易舗装(だったと思う)の道の脇に、純和風2階建ての立派な山荘が建っていた。木作りの橋を渡ると屋根だけのバーベキュー場があり、木橋があり、その先に祠があり、トタンかでできた小さなバンガローがいくつかあった。山荘や橋やバーべキュー場は今も残る。これと言って特別な風景でも、荒々しい大自然でもない。狭い谷間の半プライベートキャンプ場だった。その裏山感、里山感が、とても気にいった。

この後で、さらに清見との関係が深まる。そのころに私は一宮市でまちづくりグループに参加した。「一歩の会」といい、一宮七夕まつりで一番大きなステージを駅前で開催している市民グループだった。その中心メンバーだったK氏は大の旅行好き。せせらぎ街道で郡上方面から清見村に入ったところ、大原(おっぱら)にあるホテルと道の駅のパスカル清見へ行って、その運営方法や清見村の持つパフォーマンスに興味を持ち、ついにはK氏が役員を務めていた商店街に、清見村のアンテナショップを作るに至る。しばらくたって、このアンテナショップに、奥村さんの「どんぐりの会」事務局が置かれ、奥村さんの温かみあるエンジンで今に至るまでずっと継続して大原と一宮の交流が続いている。間には色々なことがあったが、損得で途絶えがちな山村交流を、ここまで維持しているのは、奥村さんと大原の小谷さんたちの志のほかには無い。

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彦谷へ至る道(その2) [彦谷へ至る道]

SR400を譲ってすぐ、やはりまたバイクが欲しくなった。

ヤマハAG200。メンテナンスが楽なオフロードバイクを探していて、たどり着いた。オーストラリアへ放牧地用に輸出していたバイクだ。輸出用のバイクも制度的な問題をクリアするために少量が国内販売される。ホンダのハンターカブも、AG200もそんな一台だ。今のような流通システムもネットもない時代のことだ、探しに探し、東北の販売店で在庫を見つけてもらって手に入れた。自衛隊のバイクのような無骨なデザインが黄色に塗られている。一人掛けで荷物が積める。重くてのろいが、当時の私のニーズにはバッチリだった。

私の「棲家探し」は、鉄馬を手に入れて更に拍車がかかる。平日の夜は、5万分の1や2万5千分の1の地形図とにらめっこ。電車旅も好きだから、鉄路との関係を探りつつ、場所を地図上で探す。駅からいける場所。林道を入っていった先で等高線が広がった場所。水が集まりつつ安定的な地形。一宮から遠くなく、一宮人がいない場所。雪がたくさん降る場所。

当時、SOTOというすばらしいアウトドア雑誌を編集していた岐阜の洞口健児さんは、究極のアウトドアは農業だと語っていた。洞口さんは、南飛騨から美濃の中山間地でうねうねと高低を繰り返す丘陵地帯が終の棲家にはいいと言っていた。でも私は、もう少し山深いところを考えていた。

AG200を手に入れて考えが変わったことは、電車より高速重視になったことだ。当時、名神高速のおまけの盲腸程度だった東海北陸自動車道の延長がだんだん明確になりだした。道路公団の一宮事務所へ行き、東海北陸道の工事予定図をコピーして入手した。この地図と地形図を見比べつつの棲家探しだ。

まずは郡上八幡近辺から探し始めた。何せ一宮から近い。しかも美しい街がある。

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彦谷へ至る道(その1) [彦谷へ至る道]

どこから話を始めたらいいのかな・・・

20代最後のころ、色々なことがあって、故郷へ戻った。今から思えば小欲に過ぎなかったことを大欲と考えた。ある年長者の言を深く追求もせずに聞いて、それに真摯に対応することでヨイ子のふりをして大切なことから目を背けた。その選択は、結局ずっと一生に尾を引く間違った選択だったのだが、当時はそんなことを思う訳もなく、立派な選択をしたと思っていた。バカだ。

戻ってしばらくして、十年近く乗ったバイク、SR400を手放した。30近くなっても、相変わらず車は持っていなかった。オフロード自動車は大好きで、4WD専門店で企画の仕事もしていたが、車全体にはあまり興味も無かった。しかしバイクには前ほど乗らなくなっていたら、SR乗りで美術教師をしていた知人が2代目のSRを欲しがっていて、彼に譲ることにした。

故郷へ帰るという立派な選択をした気でいた私は、十年ちょっとぶりに住みだした一宮という街に、すぐ呆れた。この街は何も変わっていない。口ではモダンを語りつつ、変革を厭いヒエラルヒーの中で安定する地方小都市。過去の産業の蓄積に巣食う不習熟な事業者群。大言壮語しつつ実は変革を恐れる若年者。サロン化してはしゃぐ自称文化人。十年経っても何も変わってない。

こうした苛立ちにも似た思いは、後に志民連いちのみやのまちづくり活動へと繋がっていくのだが、それよりも当時は、自分の終の棲家を一宮の外、自然豊かな里山に見つけないといけないという気持ちが、いきなり強烈に私を支配してきた。実は終の棲家ではなく、一宮で生きていくという定めを自分で選択したが故の敵前逃亡思想に近い、逃げ場探しものだったかもしれない。

ともかく私は居場所探し、棲家探しを始めた。週末の半分は自転車や徒歩で山へ出かけ、残りの半分は里山の棲家探しだ。80年代後半。世がバブルに踊るのとは全く無関係に、一人旅を繰り返していた。

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